ゴッホの絵


先日、行った東郷青児美術館のショップにて購入したクッキーの缶の写真です。

ゴッホのひまわりがプリントされており、欲しくて購入しました。


東郷青児美術館には常設展示でゴッホのひまわりが展示されています。



子供の頃、美術の教科書に載っていたゴッホの絵を見たとき、気持ち悪いと思いました。

どうして、筆先のタッチの重なりだけの絵が傑作といわれるのか、教科書の写真をみただけはわかりませんでした。



今から20年前、パリでゴッホの絵を見たとき、その部屋に入っただけで絵に圧倒される体験をしました。

教科書で見たあの気持ち悪いと思ったゴッホの絵は、気持ち悪いのではなく、本物ではなかった、ただそれだけなのだと。


本当の姿は、こんなに凄い絵だったのだと。


それは、絵が生きてる、動いていると感じたからでした。


絵から出てくるエネルギーに圧倒され、腰を抜かしそうになったのです。


作家はこの世にもういないのに、絵が独特のエネルギーを放っていました。

あの時、圧倒されたエネルギーを言葉で表現できず、とにかく生きてると思ったのです。

今思うに、表現していたものの中ある生命力と同時に、彼の生命力や彼の生きること、絵を描くことの情熱が埋め込まれていることを強烈に感じていたのだと思います。


ゴッホは、私に原画(本物)を見る大切さを教えてくれました。

プリントでは気持ち悪い、本物は傑作。

20年前、ああ、本物を見ないと、感動がないのだと思い知りました。


そして、20年後の先日見たゴッホの絵に私は腰を抜かすことはありませんでした。


感じ方が変わっている自分に気づきました。

昔なら「すごい!」で終わっていただろう感じ方の中に、ゴッホは何を見て、何を表現したかったのかなと、聞いてみたいなという思いが出てきました。

たぶん、ゴッホはそんなに難しく考えていなく、表現したいものを描いただけと答えるかなって思ったりしました。

けれど、その難しくない裏側にある表現の葛藤はすさまじい熱を持っていたから、この絵のタッチになったのだろうと思ったり…。


情熱を表現するって、すごいことだ。

生きざまを見せちゃうことなのだと。


私もすべての表現において、生きざま見せるぐらいの情熱、表現したいと、いや、しなければと思わされました。


Kaoru Kurosawa
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