縄文人展とトークショーへ行ってきました。
国立科学博物館で行われている、縄文人展へ行ってきました。
http://www.kahaku.go.jp/event/2012/04jomon/
(展示会のポスターを写真に撮影しなかったので、ぼろぼろですが、チラシを写真に撮りました)
この展示会があることは知っていたのですが、行かずにいました。
ところが、あることがきっかけで、6月2日発売『JOMONESE』の出版記念トークショーに行くことになりました。
http://www.aoyamabc.co.jp/event/jomonese/
JOMONESEとは縄文人展の写真本です。
展示を見ていないとトークショーの話が理解できないのではと思い、トークショーへ行く前に縄文人展へ行ったのでした。
縄文人展は、「芸術と科学の融合」という副題がついていました。
国立科学博物館
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佐藤卓(グラフィックデザイナー)
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上田義彦(写真家)
というコラボレーションの展示でした。
副題どおりの展示会だと思いました。
それは、人骨をこんなにも美しく見せる展示がいままでにあっただろうかと思ったからです。
人骨の写真が美しいのです。
そして、選ばれた2体の人骨も怖くない展示になっていました。
(人骨はちょっと不気味という思い込みが払拭されました)
また、展示されている写真の説明文を全て読んだ展示会も初めてでした。
入り口を入り、すぐのところに、手の骨の写真がありました。
その写真を見たとき、自分の手の骨ってこうだったかな?と自分の手と見比べました。
これは私だけかもしれませんが、縄文人と現代人は違うものであるという感覚があったのです。
縄文人が進化して現代人になったというイメージが強くて、人間だけど、別の生き物のような、別の世界の人たちだと思っていたのです。
しかし、手の骨の写真を見て、自分の手を見てと、両方を見ていると、ああ、私の手の骨も縄文人と同じじゃないかと思い、縄文人は別世界の人達ではないと、急に親近感を感じたのです。
そんなことを感じたからでしょうか、人骨が仰向けになって寝ている側面の写真を見たとき、私の中に「なぜ?」という言葉がでてきました。
それは、「なぜ、このようにパーツの多い人間の身体が魂の器になったのか?」という”なぜ”でした。
長い時間をかけて、どうして、人間の中に魂が入り(生まれ)、出て行く(死ぬ)ということを続けなければならないのかと。
もし、魂の成長のために生まれ出て、生きて、死ぬのであれば、このような身体ではなく、球体に魂が入った単純な作りの生き物でもいいのではないだろうかとふと思ったわけです。
神様は何を考えて、人間を作ったのだろうかと思ったわけです。
そうしたら、「美しいから」という言葉が私の前に見えたというか、でてきたのです。
その次に
「楽しいから」
と立て続けに言葉がでてきました。
生きる目的を探すだの、なぜ、生まれてきたのかとか、いろいろと理由を見つけようします。
特に人生がうまくいっていないと感じると、生まれてきたわけを知りたく、考えてしまうのです。
しかし、神様は小難しい答えを用意していたわけではなく、美しいもの楽しいものが好きっていうただそれだけの理由で人間を作ったのだと。
それは、究極の人間の生きる目的であって、主観的な美しさ、楽しさを味わうために人間として生きるということなのだと。
私は縄文人からハンマーで頭を殴られたような衝撃を感じながら、こんなことを感じたのです。
私はその答えを知っているのです。
ビオダンサで学び、人の動きが優美になることを目的として踊っている、それは全てをよくしていく道であることを私は知っているのです。
それを忘れて、いや、そのシンプルな答えから逃げていた自分にもう一度縄文人が、「なにやってんの」と、そして、「思い出せ」と言わんばかりに私に何をしたらいいのかってことを伝えてくれたわけです。
立派な目的などは後付で、本来の生きる目的は、「美しい」とか「楽しい」とかそういうことなんだと。
こういうことを写真を見ながら感じていたとき、私の目から涙がこぼれ落ちそうになりました。
もし、会場に私一人だったら、そのまま崩れて落ち、号泣してしまいそうになるくらいの、何かが自分の中から出てきました。
ただ、崩れ落ちるわけにはいかないと、ぐっと涙を我慢して、最後まで展示を見ました。
いろいろな部位の骨を写真で見ていくわけですが、中央にあるガラスケースに、モデルとなった2体の人骨があり、縄文人の骨と対面しました。
骨を見たときに、聖書にある「怒りは骨を枯らす」という言葉を思い出しました。
この2体の骨は枯れずに長い時間を越えて、目の前にいるのです。
素直に、すごいなと思いました。
もしかしたら、ここに並べられている骨を持つ彼らは、とても気の良い、優しい人で、怒ることに遅い人達だったのではないかと思ったんです。
(平たく言うと、のんきな人でしょうか・・・)
だから、こうやって枯れずに時を越えることができたのではないかと。
私の骨は枯れていないか、大丈夫か?と思ったわけです。
そんなことを感じながら、最後まで展示を見ました。
見終わった後、昔の人の骨を見るだけの展示なのに、言葉や言葉にならない、なんともいいがたい”何か”が自分の中にインプットされているような感覚がありました。
そして、「縄文人って何者だったのだろう・・・・」と思いながら、展示会場をあとに、トークショーへ出かけました。
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トークショーは、小林達雄(考古学者)×佐藤卓(グラフィックデザイナー) 『縄文人の生き方に学ぶ』というものでした。
佐藤さんの質問に小林さんが答えるという構成でした。
佐藤さんの質問も、小林さんの答えも興味深く、そして楽しく話を聞くことができました。
縄文人と彼らの生活から、キーワードが出てきて、話が進んでいくのですが、途中、縄文土器の話になりました。
突起があったり、バランスの悪い作りの土器を生活で使っていた縄文人の話になったとき、縄文人の気質のような話になったのです。
どうして、縄文土器を作ったのかは、作った人にしかわからないことなのです。
しかし、お二人の話を聞き、縄文人展で感じたことをそのまま当てはめれば、縄文人は主観的に美しい、楽しい、ということを生活の中で表現する文化を持っていた人達だったのではないかと思いました。
そういう意味で、縄文人は現代人よりも”自由”ということを知っていたのかもしれません。
主観的に美しい、楽しいとは、自由ととてもつながっているように思えるからです。
現代の生活では決してありえない造形の器をたくさん作った縄文人です。
縄文人はある意味単純ではない器を持つ文化を発展させた人達で、どうしてそうなったのか?
もしかしたら、彼らは自分達の魂の入れ物である身体が複雑であることを知っていたのではないかと。
器を作ることは、自分を表現することだったのかもしれない、だから単純ではであるはずがないし、美しく見えるものでなければならなかったのではないかと。
また、食べることが生きることと直結していかたらゆえに、魂を入れる器の身体と、食べ物を入れる器を同定させる文化が生まれ、受け継がれていったのではないかと思いました。
縄文土器だけではなく、いろいろなキーワードからトークショーの話は発展していくのですが、全てを書ききれません。
ただ、話を聞けば聞くほど、縄文人って面白いってことを感じたのです。
そして、縄文人のDNAをどこかに受け継いでいるであろう現代の私たちも、恥ずかしがらず、美しいとか楽しいを表現することで、何かを変えていくことができる可能性があるかなと思うのです。
言い換えると失ったものを取り戻せる可能性を秘めているのかなと思ったりしました。
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最後にこの写真。
国立科学博物館の前にある鯨です。
子供の頃、『中国の恐竜展』という展示会を見に、父に連れて行ってもらって以来かもしれない、国立科学博物館。
そのときに、この鯨はいなかったはず。
面白いものが増えている。
そして、子供の頃には見過ごしていた、ステンドグラスや、価値のわからなかった展示物など、今だから面白いと感じるものが国立科学博物館にはあるんだなと思いました。
また面白い展示会があったら、行ってみようかなって思いました。
縄文人は鯨、見たかな。
あぁ、あと、縄文人はどんな踊りをしていたんだろう・・・。
Kaoru Kurosawa
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